批判力

 批判が、相手をけなす言葉になってしまってるのは、非難という言葉と語感が似ているからだ。語頭にくる「ひ」という言葉に、notの意味が多分に含まれている。

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議論で一番大事なのは、相手の意見を要約して把握することよりも、その論拠がどこから来ているのかを掴むことだ。前提が共有できないと、議論は常に平行線になる。お互いのことを論理的でないと感じてしまう。着地点が見えなくなった議論は、感情に支配され、修復は不可能になる。


日本にいて人と議論をするとき陥る根深い問題は、「議論の前提は何もしないでも自動的に共有されている」と、無条件に思い込むことにある。ここで、議論の前提は何によって作られるかというと、宗教的な倫理観だ。もちろん、文化や生活様式の中にも、議論の前提を構成している要素が含まれている。日本は、異文化と接する場面はすくない。だから、異文化と接しないと、「前提が違えば議論に齟齬がうまれる」という命題が、深い体験として理解できないのだ。


昨日の参院選を見て思ったのは、民放の司会者は、候補者や政党関係者にインタビューをしているときに、ただ相手の言ったことをおうむ返しのように繰り返しているだけだったということ。インタビュー相手が何故その発言をしたのか、という真意を汲もうとしない司会者たちに、溜め息がでた。メディアの役目を放棄している、と。その点、テレ東の池上さんは、相手の意見の背景、意見の意図を常に探していた。結果的に、相手が言葉遊びで誤魔化そうとしていたところ、弱みをきちんとすくいとることができた。


メディアは本来、相手の真意を汲み取ろうという批判的精神のもとに、存在している。しかし、大体の放送局が、相手の政治家たちの不利益にならないように配慮した、当たり障りの無い情報を垂れ流し続けた。何故、政治家達に擦り寄っていたのだろうか。そういう時点で、メディアのあり方を、本来的な役割を、僕たちに示してくれたテレビ東京、並びに池上さんには感謝をしたい。視聴率も、民放で2位になったそうだ。非常に素晴らしい。インターネットでも、ニコニコ動画の生放送も、同じ意義を果たしてくれた。


これからの日本の未来は、先が見えないという方もいるが、僕はそうは思わない。少しずつ、誰もが納得する方法が尊重される方向に進んでいるからだ。むしろ、希望が持てない時代を抜けた先に何が待っているかを、見てみたい。生きる楽しみが、ほんのちょっと増えた昨日の参院選でした。

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

新興宗教に入信している僕、悪徳営業マンだった僕

新興宗教に対して、どんなイメージがありますか?


僕は、生まれた時から、ある新興宗教に入っていました。
入会したきっかけは、両親が入会しているからです。

一年に二回くらい、本部へと、両親はお祈りのため、僕を連れ立っていきました。
当時、小学生にも上がっていない僕は、電車に乗れる、とかおいしいものを帰りに食べられる、とかしか思っていませんでした。

今でも、その教団のお守りを、僕は財布に入れています。
理由は、両親が信じているのを、無下に断っちゃかわいそうだな、ってところですかね。

ある程度成人した時点で、僕はこの教団に対して、別に否定も肯定もする気持ちは無く、
ただ、僕個人がその崇拝の対象に対して祈ることはないし、両親が本部に行きたいって言った時は、着いて行って、後ろのほうで、源信の往生要集だったり、ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神でも読んでいようかなぐらいの勢いです。


翻って、某S価学会。
僕は、この教団に入信している友達は、結構多いです。
土地柄、バイト先がここの大学生であることが多かったです。

みんなに共通することは、人が良く、人の言うことを信じやすい、ってところですかね。
そんな性格の人、この教団に入ってなくともゴマンといるので、別にカテゴリー分けすること自体、取るに足りないことですが。

だから、この教団に対して、僕は特に悪いイメージは無いです。
正確には、この教団に入信している友達に対しては。
飲みに行ったり、泊まりに行ったり、ちょっと好きだった子とは、二人きりで飲みにいったりしていました。

ただ、この友達達が、選挙の度に、K明党に票を入れるよう、電話をかけなきゃいけないって言ってるのは、少々可愛そうです。


僕達が新興宗教に対して、往々抱く悪いイメージは、自分の教義を押し付けている時と、高額商品や寄付などを、必要以上にむさぼり取っている時に形作られます。
そう、被害者が出るときです。

結果的に、上層部の人たちに、悪意を感じても、僕の友達には感じません。
だからこそ、教団として評価しなくてはいけないとき、僕はいつも微妙な心持にさいなまれます。
善悪の評価なんて、そんなすっぱり決められません。


生まれた国や、親、そして親が信じている宗教を、僕達は選べません。
だから、幼少期に体験した経験は、思ったよりも深く、僕達の心に根ざしています。
その存在や規範、信条が当たり前と思って、生きています。
批判が正しくあれ、間違いであれ、自分が所属している組織、この場合は、日本、親、宗教を否定されると、やっぱり心は苦しいですよね。
今すぐ、アフリカのどっかの国に帰化しろ、といわれても、電線にはりめぐらされ、
夕飯に飲む味噌汁がおいしく、くたびれた酔いどれサラリーマンが電車で情けない格好で寝ているこの国が、なんとなく好きなんですよね、
だから、僕は断ります。

そう考えると、自分の所属、アイデンティティーを根っこから変えるという判断は、なかなかつけ辛いもんです。

営業もそうですよね。
僕が営業が苦手な理由は、そんな宗教の苦手な部分、自分のところの製品だけを過剰に評価して、必要も無い時に売りつける、そんな営業が、わりかし多く溢れていることに起因するかもしれません。
もちろん、素晴らしい商品を売ってくれる営業マン、または企業も多く存在します。

だけれども、元々営業は、自分が作ったものを売ることを意味していました。
いつの間にか、作り手と売り手は、分離してしまいました。
さらには、売り手は、売る商品を、指定され、利益追求の名の下にノルマを課せられ、仕方なく売りつけるようになりました。
過激な布教活動と営業活動は、被害者を生む。
ここに類似点があるのではないでしょうか。

そう、大事なことが欠けている気がします。
自分が良いと思ってるものでも、他人はどうかわからない。
そして、そこに気づいている善良な宗教団体、営業マンの数の少なさに。

私達は、自分で宗教や、商品を選ぶことができます。
しかし、ある程度生まれた時から信じているもの、または自分が所属している組織で売っているものを悪く、そして不必要なものだ思うと、自分が悪者になった気分になってしまうので、なるべくそういう面を見ない様にしてしまいます。
人間には、そんな要素がある、ということを自覚しないと、「妄信」という迷路の出口に出てしまいます。

経済学では、最初の基準となる価値判断によって、相対的にそれ以降のものを判断することを、アンカリングと呼びます。

最初に、一杯190円の牛丼を食べてしまったら、一般に安いといわれる290円の牛丼でも、高いと思ってしまうことです。

自分で、今までの価値観を捨てて、新しい価値観を手に入れることは、とても難しい。
時には、親戚、同僚の非難までもがついてきます。
290円の牛丼でも、充分安いとしても。

それでもやはり、自分が信じているものが、なんとなく他人に悪影響を与えていたり、不必要なものを押し付けていたりした場合は、思い切って捨ててみることが、勇気だと思います。


僕の場合、両親は僕がまだ入信していると思っています。
しかし、僕はもう、まったく信じていません。
でも、ここで両親の信じてきたものを、正面切って否定はしたくないので、このことは一生話さないでいようかなって思っています。


大切なのは、所属よりも、自分が何を考え、どう行動しているかだということ。
所属や組織自体に振り回されること無く、しっかりと価値判断して生きていきたいですね。

往生要集〈上〉 (岩波文庫)

往生要集〈上〉 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

あいつの音楽

音楽を聴く。
これは毎日やってるんだけど、
最近、僕が大学で軽音楽部に入ってた時に、
他の奴が好きだった音楽を聴いている。

スマパンだったり、コールドプレイだったり、デリックメイだったり。

あいつらは、こういう音楽を心底かっこいい!と味わっていたのか、
お、意外とこれはいい曲だ!

そんな発見がある。

好みって不思議だよね。
まったく心が動かんような曲でも、誰かの心を揺さぶっている。とても強くね。


あいつらにとってめちゃくちゃいい音楽は、僕にとってもちょっといい。


こういう、いいことが伝わっていくのって、いいよね。

中には、こんなの聞くのかよ!
って思うこともあるけど、それでも誰かの心を揺さぶってる。
だから、その音楽はこの世に出ているんだ。

そして、これって人にも当てはまると思う。

僕にとって大切なあなたも、誰かにとってはちょっといい奴で、
あいつにとってはいやな奴かもしれない。

全員が同じ音楽、同じ人に同じ評価を出し得ないことは、僕たちはもう、わかってるんだ。


だからこそ、誰かのちょっといやな奴になっても、落ち込むことはないんじゃないかな。

だって、誰かにとっての大切だった経験が、みんなにも、ぼくにもあるだろ?

たまたますれ違って、大切から、距離をおきたい存在になってしまったとしても、
大切だった存在であったことには変わらない。

むしろ、親とか、親友にとっては、ずっとずっと、大切な存在だ。


もう少し、誰かにとっての大切な存在であることに、胸を張ってもいいんだよ。

大切であることを思い出すことで、君が強くなるなら。

あいつがそう、歌っていた気がするな。

外国人参政権に吠える

在日韓国人は優遇されてるのに、参政権まで・・・」とか、
「地方の議員がほとんど外国人になる」とか、

後は、韓国や中国に媚売ってるとか、民主党は回し者なんじゃねーかとか。

うーん、それって、根拠なく不安になってるだけだったり、
感覚でもの言ってるだけじゃねーか?って感じちゃった。


日本で生まれて、日本で生活してるんだったら、同じ扱いでいーじゃねーかって思うんだ。
同じ人間だし。

犯罪犯す率が、日本人よりも数倍高いらしいですが、
人は生まれつき犯罪を犯す動物なんじゃなくて、
環境により犯しやすくなる傾向にあるだけで、
なりやすい要素を取り除けば(就職、就学の際の差別とか)犯罪率下がるだろうし、さらに、
犯罪者がいる割合は、極わずかなのに、その他大勢の人まで、危ないって見てしまうこと、
僕はこの考え自体が危なっかしいなぁって思います。



他の国で外国人参政権を認めている例が無いだとか、
地方の議員が外国人だらけになるとか、

そんなん、別に前例がなきゃこれからモデルケースになりゃいいじゃねーかって思うんですよねー。

地方の議員が外国人だらけになるって、どんだけ外国人住んでるんだよ、それを計算して言ってるのかよ、って思います。

論理って、自分が思っていることを正当化しがちになるんで、僕ももちろん、主観的にならざるを得ないですが、ただ、メディアが言っていること、ネットの記事であったことを鵜呑みにしすぎな人が多いんじゃないかなぁ。
垢にまみれてない、きれいな意見が多すぎる。



僕の周りの在日の人、めっちゃおもろいやつとか、かわいい子多いし、
黒人とかでも、やっぱり危ないことしそうな人はいないなぁ。
ゾマホンも、大学内や、クラブで話したとき、ちょっとすけべないい人だったし。

そういう人と、実情を話し合った上で、考える機会があってもいいよね。

在日というだけで、外国人だというだけで、そいつらがシュンってしてしまったらさ、
なんか申し訳ないじゃん。

うちらだって、縄文人弥生人漢民族とか、色々な血が混じってるんだし、
これから先、国籍にこだわっていても、また議論がそこにあるだけで、何も実情は進展しないだろうなぁ。

俺やだよ、そんな国になるのは。


僕は基本的にひねくれてるので、わざと少数の意見にいきたがる傾向があります。
正直自分の意見が正しいかどうかは、大勢の人の判断に委ねると、間違っている場合が多いです。
まーでも、そういう考えがあるんだね、ぐらいの心積もりで読んでもらったらいいかなぁ、って普段から思ってます。

全国の中学受験生へ

駅で、小学生が参考書を読んでいる姿を見て、もうそういう時期か、って目を細めてしまいます。
僕も去年は生徒を持つ身だったので、そういう子を見かけたら、少しでもがんばってほしいなぁ、なんて後姿にエールを送ったりしてます。

うーんと、まず、受験当日に、合否に影響を与えるものを、順に連ねてしまいましょうか。


1 体調

2 緊張

3 問題



まずは、1の体調から。

どんなに予防をしても、当日に風邪を引く子、お腹が痛くなる子は出てきてしまいます。
当然、自分の子も、そうなってしまう可能性は、ゼロではありません。

体調を崩しながらの受験は、集中力、体力共に不十分で臨まざるを得ないので、一番合否に直結してしまいます。

この時期は、暖かい食べ物、飲み物を中心に採るように心がけるだけで、予防効果はあります。

当日、もし本人が体調崩した時は、誰よりも保護者の方が、真っ先にストップをかけてあげてください。


続いて、2の緊張です。

緊張するかどうかは、個人によってまったく振れ幅が異なってきます。
そして、当日になってみないと、あまりわからない、かなりランダムな要素になります。

誰もが、多かれ少なかれ、緊張してしまいます。

解決策は、ありません。

だからこそ、緊張はしてもいいんだ、ってことを、子供に語りかけてあげてください。
緊張しながら、それでも点数を取れるように、合格平均点を充分上回る実力をつけることが、事前の一番の準備になります。

中学受験は、高校受験に比べて、緊張による点数のブレが、かなり大きくなってしまいます。
だから、奇跡的な合格も、予想外の不合格も、数多く生じてしまいます。

本人の性質を変えることはできないので、子供を信じ続けてあげてください。
親が不安がると、子供も緊張を高めてしまいがちになります。



1は、なる可能性が低いけど、なったら大規模な影響を与える要素で、
2は、誰もがなるけども、影響を与える度合いが中程度の要素です。
すでに、1と2で、もう充分に受験がどう転ぶかわからない要素だらけになってしまいました。

次は、3の問題、
誰もが影響を受けて、影響を与える度合いが軽い、しかし、一番後から後悔してしまう要素です。

受験問題は、同じ学校であっても、年度ごとに出題範囲、出題数、難易度のすべてが、変動してしまいます。
ある程度、予想をしたり、傾向をつかむことはできますが、それでもやはり、何が出るかは事前に分かりません。

たまたま得意な箇所だけが出たり、たまたま直前に見たところが出たりと、ランダム要素は必ず入ってきます。
合格の当落線上にいる人たちにとって、この軽い要素こそが、合否をわけてしまうのです。

だから、後から、あそこを見ればよかった・・・あの問題をやっとけばよかった・・・という後悔は、決して言っても、思ってもいけません。
わからなかったからこそ、後悔するものですから。

じゃあどうすればいいかって?
確かに、過去問をやって、傾向をつかむことは大切です。
過去問演習で、合格点をとれるぐらいまでに、できればなってほしいものです。

しかし、やはり、どんな問題が出るかを知ることはできない以上、「運」が必要としか、言えません。


受験は、実力の世界と言う人もいますけれども、当落ラインをまたぐかどうかの瀬戸際の人たちは、運ですべてが決まっているのです。


もう一つ、ケアレスミスについても触れておきますが、
ケアレスミスをゼロにしろ、という先生には、あまり感心しません。

その先生も、必ず小さい頃はケアレスミスをしただろうにも関わらず、生徒にはケアレスミスするなというのは、勘違いもはなはだしいと、私は思います。

ケアレスミスは、してもいいのです。
ただし、合否に影響しない範囲で、というのが、持論です。

ケアレスミスがあるから、合格ラインに届かない・・・という場合は、根本的に実力が足りないと思ってください。
練習量不足で解くスピードが遅いか、または、理解できていない問題がある、のどちらか、あるいは両方が引き金となって、見直せない部分が出てきてしまう、それがケアレスミスの正体です。


暗記系ですと、自分がしっかりとおぼえていると思っていた記憶が、実は薄れていて、思い出せない場合です。

これは、自分がどこを忘れているかを、知ることができない以上、避けようがありません。

もし、そういう問題に当たったときは、すぐ別の問題に取り掛かり、もし見直しの時間があるならば、そのときに思い出す作業に入った方が、点数は取りやすいです。



ちょっと長くなりましたが、
受験、特に中学受験は、運の要素がかなり大きいです。
ですから、自分の子供ができなかったわけでは、決してありません。
僕から見れば、子供が、模試や過去問で合格ラインに入っているだけで、充分できるようになった子なのです。

「あとちょっと、運があれば合格できたんだよな」

ほんとに、受験ってそんなもんです。

合格した人は、運が良かっただけであっても、そのことに気づきません。
なのに、○○中学に受かった、って結果だけが残ってしまうんです。
逆に、そこで運良く受かったとしても、自分の能力を過大評価して、自分の本来との実力とのギャップに後世苦しむなら、そこで落ちていた方が良かったなんてこと、あります。


ですから、受験に失敗した場合にも、悲観的になる必要はまったくありません。


実力はあったけど、運がなかったヤツ、っていうのも、なかなかかっこいいと僕は思うんですよね。
またがんばれるし。


さて、いよいよあと一ヶ月。
受験が終わった後、きっと親子でいい笑顔が出るのを、願っています。

詳しくなくとも、愛せる

詳しくなくとも、愛せる

好きなアーティストの曲をいっぱい知らなくとも、愛せる

好きな人のことのことを知らなくとも、愛せる

よく知らなくても、好きって言ってもいい

詳しくなくとも、愛せるんだね

各駅停車と効率化

座席に着くと、まるまると太ったリュックサックを、よいしょと身をかがめて足元に置き、自動販売機で買ったペットボトルのお茶を、のどを湿らすようにゆっくりと飲み込む。

電車の発射時刻まで後10分、今からどんな景色を見られるのだろうか。

期待が高鳴ると同時に、胸の鼓動がゆっくり落ち着いていくのが聞こえる。


或る、旅の一風景を切り取ったに過ぎない思い出です。

僕は、青春18切符で各駅停車の旅をするのが、なんとも好きなのでございます。


各駅停車のスピードは、いつももったいぶるように通り過ぎる。
目の前にある風景を、残像として残しながら、また次の景色を運んでくれます。
景色と景色のつなぎ目が、はっきりと見て取れるからこそ、突然目に入る、山間の大河、冬場に見かけられる、新雪の柔らかさ、鉄橋からのぞく、沢の穏やかな流れ。


そうしたゆっくりしたスピードを、僕はいつも、体で感じたいんです。



最近なにかと、効率化が良いことだ、と叫ばれるようになりました。
コンビニの棚でさえも、効率化の文字を見かけられることもしばしばです。
書店のビジネス書のランキングに目を通しますと、何かこっちの鼓動も無理矢理早まってしまうような、タイトルがたくさん飛び込んできます。


「効率化」


なにか、自分を、とんでもなく遠くへ連れてってくれるような、魔法のアイテム。

そんなちょっと甘い匂いを振りまきながら、雑誌や書籍は、人生のスピードアップを謳いあげています。



ん、ちょっと待てよ、でも常にスピードアップして生活するってことは、いつもなら見える景色のつなぎ目も、見えなくしてしまうんじゃないか。

最近、そんなことを思うようになりました。

効率化、と、急ぐ、ということは、言葉は遠いですけども、感覚としてはとても近しいのだと、僕は思うのですよね。

ひつようなことだけを、ピンポイントで行っていく。
そうすれば、他の人よりも、何倍の差をつけることができる。
しかし、反面として、
仕事や生活のサイクルを急がせすぎて、切り落としてしまった状態、つまりは景色のつなぎ目を見ることなく、意識することなく、毎日を過ごしてしまう生き方になってしまうんじゃないかなぁ、と。


僕はビジネスの世界にいないので、スピードがいかに大切かはまったくわからんのですけども、例えばそうやって、お金を稼いでいって、何でも人より効率よくできるようになったとしても、ビジネス以外ではどうやって過ごせばいいんだろう?って疑問が、頭にこびりつきます。

音楽は効率よく聞くもんじゃないし、料理はじっくり煮込んだ方がおいしいし、
買い物は、あれでもない、これでもないと色々悩んだ結果、買わなかった、ってありふれる光景が結構楽しかったりするし、
電車は、各駅停車に限る、と僕は感じるのです。


効率化がいけないことではないと思いますし、僕も効率化させたいなぁなんてことも、もちろんあります。
ただ、なんか最近、効率化することが目的となっていて、何故効率化しなきゃいけないのか、の部分が、ほっぽりだされている気がします。

ビジネスの世界はスピードが大切だから・・・・とか言う人はいますけども、でも、良く考えると、それってあなたも誰かに言われたでしょうに、と思わず言ってしまいたくなるほど、言葉が軽いのですよね。


国民全員が勝間和代だったら正直僕は泣きながら逃げ出したくなりますし、
彼女のやり方を実践している人に、宗教色を感じてしまいます。
何より、そんなに行き急いでどこへ行く!と、その行く先がざわついていて、穏やかに見ていられません。
効率化を目指せば目指すほど、老化を加速させているんじゃないかな。


だから、僕は、ちょっとゆっくり生きてみています。


無駄とか、余分とか、そんなもんをじっくりと味わいながら、歳をとっていきたいって思ってます。

窓をゆっくりと流れる、変わらない素朴な景色が、少しずつにぎやかになり、次の駅の到着を匂わせる、あの静かなワクワク感を感じるために。

思うに言葉は

心から流れ出して そして固まった
氷山のようなものだと思う

僕達が言葉をやりとりするとき それは
地表に出ている その人の一部であると

言葉でやりとりしているからこそ 私達は言葉が交わされる部分がすべてだと感じる


言葉に出なかったことは ほとんどなかったこととして 扱われる

言いかけた言葉も 言えなかった言葉も

伝わらない言葉として ずっと 水の中に漂っている


言葉がなくなったときに そこにいるだけで 何かが心に去来する

僕達には そういう沈黙のコミュニケーションが 実はある


例えば 音楽や 詩や 映画 などの諸芸術が その代役を担ってきた

言葉では言い表しつくせない その水の淀みを ほの暗い底を じっと見据えるように



どこまでが言葉で言えて どこからが言葉で言えないのか

そして 言葉で言えないことを どうやって そのまま見つめていくか

僕らの沈黙が 誰かの心に届くように

リアリティー

攻殻機動隊や、SF、特に山本弘の作品を読んでいると、
リアリティーは、自分が「これはリアルだ!」と、感じられるものが現実だと考えさせられます。
コミュニケーションの相手が、「生きている生身の人間」じゃないといけないという前提は、とても古臭い考え方になってしまったのではないでしょうか。


例えば、ラブプラスや出会い系のさくら。
はまっている本人からすれば、やりとりしているコミュニケーションの肌触りこそが、現実なのです。自分が相対するモノに自分の心を通電させれば、コミュニケーションはそれで成立できます。つまり、コミュニケーションは、一方通行でも、成り立つのです。

多分、もっと詳しく論じようとすると、コミュニケーションの相手に、自律的思考回路があるかどうか、なども議論の対象に入ってくると思うのです。 ですが、今回はそれを一端脇に置かせてください。
自分の心が、相手に対して何らかのリアクションを取ろうとする感覚によって、僕の言う<リアリティー>が得られます。ですから、対象が機械であれ、映像作品であれ、もちろん動植物であれ、コミュニケーションの相手として成り立つことができるのです。
つまり、コミュニケーションの相手に実体があるかどうかは、どうでもいいのです。


恐らく、今世紀中に、コミュニケーションを補完する機械、つまり、僕たちが寂しくなった時や、ストレスを解消したいときに、話し相手となってくれるような機械は、必ずや誕生すると思うのです。
そうすると、そのマシーンばっかり相手にして、現実世界ではコミュニケーション不全になるのではないか?
なんて議論が、方々から聞こえてくるのでしょう。

でも、ほんとうに近い将来、現実世界でのコミュニケーションの必要性は、今の世の中よりも、<相対的に>薄くなると思います。
何故かというと、現実世界でのコミュニケーションが、色あせたり、不必要になったりするわけではなく、機械に代表される、人間以外のコミュニケーションの相手が、飛躍的にその数を増やします。その量が爆発的に増えることによって、相対的に現実世界のコミュニケーションが、相対的に少なくなったように感じるのです。

これからはどんどん技術力が向上され、より親和性の高い、つまるところ、機械における<より人間らしさ>が色濃くなることも必定でしょう。もっとバリエーションに富んだ、人付き合い、ないしは機械付き合いができるようになるのです。


だから、いじめられっこが学校に行かずとも、ずっと友達である機械と、日常の様々なことを語り合って、友情を育んだりするような時代になってもいいと思うんですよね、感覚的には。
いじめられて自殺をするよりも、ずっとずっと、良い方法だと思うんです。


その光景を違和感として、排除しようとする人々が少なからず存在してしまうのも、同じく確からしいことではあります。
だから、先手を打って、そういう人にも手軽に楽しんでもらえるような、ポピュラーなコミュニケーションの機械があれば、とってもいいなぁ。

日本で生まれて育っているから、アトムのようなロボットにも、心が宿る、と僕たちは思いやすい。
そんな文化的下地が備わっているので、世界に向けて、アトムのような日本発信のコミュニケーションマシーンを、沢山作っていけたら面白いね。

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 [DVD]

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アイの物語 (角川文庫)

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働くことの未来

人間の考えは、どうやって形作られているのだろう。
僕は、自分の判断だと思って行っていることが、実は、今まで誰かに「そうした方がいいよ」ってずっと言われ続けた結果かもしれない、って常々考えてる。

そうすると、本当の自分の意見っていうのは、喜怒哀楽が伴う、っていう持論ができあがった。

情感が一緒に湧いてくる意見は、自分の本音に近いんじゃないかな。



<働くスタイル>が、今日本ではすごく取り沙汰されている。

議論の的にもなっているし、個人的にも、目の前に毅然とそびえている問題でもある。


社会で仕事をしていくにあたって、仕事をする際、どこまで本音を言うべきか、どこまで建前で意見をするべきか、というのが、今日本全体で「どうなんだ?」って着地点を探している気がする。


特に、新卒の人が行う就職活動で、過剰なまでに社会のスタイルに併せるタテマエとしての応急処置を、全員が取っているんじゃないか。

手書きの履歴書、リクナビから押し寄せるメール、自分の長所のPR、その会社で何を産み出せるか、将来の自分のビジョンなど、面接のときに用意しなくてはいけない、就職活動専用の書式、形式を、守らなくては、入り口にさえ立てない。

転職のときにも、職歴、辞めた理由、履歴書の空白の時期に行ったこと、などなど、タテマエで用意しなくてはいけないことが多すぎて、疲弊してやしまわないだろうか?


もちろん、そういったタテマエがうまく機能してきた部分もある。
むしろ、今までうまく機能してきたからこそ、みんなが続けてきたのだろう。
勤勉さや、従順さなどのモラルは、高度に熟達できるようになる。



だけど、タテマエを守ることを、ずっと続けてしまった結果、本音を言い出せない人は、過労死してしまったり、あまつさえ、誰からも取り上げられない犠牲者として、今もどこかで彼らの声にならない苦悩を叫んでいる。


人間は、感情を伴った本音を語ること、それが何よりも不可欠な新陳代謝ではないのだろうか。
それを封殺され、語ることを良しとしない状況に追い込まれてしまえば、誰でも愚痴っぽくはなってやしまわないか。


辛かったら辛いという、休みたい時は休む、できないことはできないという、これらはともすれば、マナー違反であり、幼稚な行為とみなされるかもしれない。


しかし、この本音の部分をこれ以上、今の世の中で押さえつけては、機能不全を誘発してしまうだろう。


インターネットが世界中をつなぎ、それこそ自由な本音が飛び交うなかで、これ以上、タテマエ社会を護持できるような人間は、育たない。

若者が、会社やサークルの飲み会に参加しなかったり、過剰な消費を抑えるようになった。
この事実から読み取れるのは、本音を語る、もしくは語れないにしても、行動で本音を表明するような素地が、できあがったということだ。
それも、各々ひとりでに行っていたことが、実はその世代の多くの人が同じように行っていたことには、驚嘆せざるをえない。

これが今の若い世代の、気風なのだ。


タテマエ社会から逃げ出すように、自分のスタイルと距離感で組織と接する若者が増える。

彼らが大切にする価値観は、もちろん一人一人異なるにしても、根っこにあるタテマエに対しての暗黙の否定、ないしは拒否は、きちんと僕たちが感じられるまでに成長している。


こういう考え方をしている人は、20代中盤を軸として、どんどん上の年代にも波及しているんじゃないかなと、個人的にいま、思っている。

「俺が言いたかったのは、こういうことだったんだよな。」

そうモニターの前でつぶやいている、様々な年代、職業、性別の人々。
そういう人たちがやがて大勢になる時代は、きっと来るだろう。

個人と組織を、自由に、そして軽やかに行き交う時代が。

僕は今、そういう時代を生きているうちに見られそうだから、これから先を生きるのも、ちょっと楽しみでもあります。

もちろん、今までしてきた、我慢するというストレスが、意見の衝突という新たなストレスに切り替わるので、不安や不満がまったくなくなるわけではないでしょう。

ただ、意見を出し合う方法や、またはその際注意すべきことを、もっと僕たちが身につけられるチャンスでもあると思うんです。

会議でいくら揉めあっても、会社が終われば一緒に遊べるような、そんなオンオフのスイッチが、上手に入れられるようになるかもしれません。


僕は、こういう方向に社会は進んでいくと思います。

根拠?それが無いのですよ・・・・

ただの勘違いかもしれないですけど。


フリーターの僕はめっちゃありがたい!

うん、これは本音だ。

働かざるもの、飢えるべからず。

働かざるもの、飢えるべからず。

ふつうの人

タバコ吸いそうもない人が、ポケットからおもむろにタバコを取り出し、ライターをゆっくり近づける。



ふつうの人像を、一応、自分のイメージとしてなんとなく持ってたはず……なのだけど、一体全体、ごくふつうの人って、すぐ目の前を素通りするように存在するのか??



まったくのふつう人が存在しないのならば、ふつうという言葉は、理想や地獄といった観念的な言葉と同列なんだよなぁ。


ふつうは自分の中で、これだという像を作りあげて、その像をモノサシ代わりにしてあれこれ測ってみる役割もある。


けど、ふつうの人は存在しない。


自分のイメージだけの世界に、存在する。


誰かが想像するふつうも、自分のものとは、恐らく違うのだろう。




頭上をモノレールが通り過ぎた。
デパートの周りに人が集まり出す。

僕はこの何気無さが、割りと好きだ。

さぁ繋ごう

音楽から教えられた、以心伝心という感覚。




届けたいメッセージを、それを必要としてる、または届いたら心に響くだろう人達に、きちんと、正確に、ありのまま届けること。

その、配達人としての役割を果たす、もの書きになりたい気分です。

もの書き自身が発信することも多くあるけども、今はそれが定まらない以上、まずは媒体、メディアとして伝えることをしてみたい。

価値観は押し付けられる一方で、目指す理想像は数種類しか存在しない。

それ以外の道は、まったく見えない今の時代だからこそ、きちんと自分の頭と心で判断して、道を作ってほしい。


偉そうだけど、そんなところです。

イマジカイマジカ

多分、物理を解くのが上手な人は、日常の細かい物の動きをつぶさに観察して、
頭の中に記憶してある。

だから、学校で教えられた公式を、自分の記憶と結び付けてみて、ぴったり揃ったなら、それが知識へと変化していくんだなってね。


想像は、それに加えて、自分の頭の中でシミュレーションを起こしてみることだと考えた。

この状況で、こう動きだしたものは、(シミュレーションの結果)こう動いていくだろう・・・という具合に。




最初はすぐに乗れない自転車も、とりあえず乗ってみることで、バランスが取れる体の使い方を、脳が覚えてくれる。
一端覚えたら、後はすいすい上達していく。




想像力ってあなどるなかれ、自分の中にある経験だけをずっと見据えて、ちょっと繋ぎ目、繋ぐ相手を変えるだけで、新しい考え方が生むことができる。



やべー、想像力ってすげーかも。



自分の体験を元に、新しい方程式を作っていくか、

他人が産み出した方程式を、自分の体験によって実践していくか。


ここだね、ここ。


自分の中に違和感があるなら、どんな偉い人が導き出した方程式も、時にはそりゃ違うだろ!って疑うことも、必要なのかな。


その違和感を言葉や方程式に残して、また自分に組み入れて、新しい自分として毎日過ごしてみる。

すると、新しい世界が目の前にどんどん広がっていく。


そう思うとね、歳をとることも面白いっ!

ゆっくり生きていくことで、違和感とじっくり向き合える。



うん、これもいい感じだ。
テストに出します!

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

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